名言と共に見るビジネスマンとしてのジェームスブラウン
2018/03/11
ソウルの帝王ジェームス・ブラウンをサンプリングしたマンガ「ファンキー社長」のホームページです。
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「俺は七十五パーセントがビジネス、二十五パーセントがエンターテイナーだ」
(引用:JB論)
ザ・ハーデスト・ワーキング・マン・イン・ショウ・ビジネス(ショウビズ界で一番の働き者)と呼ばれたジェームス・ブラウン氏の言葉です。
申し遅れましたが、私はジェームス・ブラウン氏をサンプリングしたマンガ「ファンキー社長」作者のJAYです。良かったら本記事と合わせて漫画もご覧ください。
ジェームス・ブラウン氏は、自分自身をステージに立つスターとしてよりもビジネスマンとして捉えていたことが、この言葉からわかります。
彼がビジネスマンとして成し遂げた数々の偉業…いや、偉業そのものよりも、その実現に向かって諦めることなく挑み続けるその姿こそ、数十年の時を経て今を生きる現代ビジネスマン(もちろんサラリーマンや契約社員、パートやアルバイトにだって!)たる皆さんの心に、深く深く突き刺さるはず。
彼がどんな姿勢で、目の前に立ちはだかる困難を打破し続けたのか。
彼の残した名言とともに、そのほんの一端を覗いてみましょう。
彼の1956年のデビュー曲「Please,Please,Please」。当時の彼の所属レーベル社長だったシド・ネイサン氏は、デモで「Please」を聴いて激怒してしまいます。こんな懇願するだけの曲が売れるか! と。
しかしジェームス・ブラウンはそうした上層部の既成概念に屈することなく、「Please」をリリースしました。もちろん彼1人の力だけではなく、当時彼らをプロデュースしていたラルフ・ベース氏による「この曲は売れる!」という強い後押しあってのリリース。
そう、要求を通すために強い影響力(裁量や人脈)をもつキーマンを事前に押さえておくのは、ビジネスを円滑に推し進める上での基本事項です。
結果、「Please,Please,Please」はR&Bチャート6位の大ヒットとなりました。
…さて、それから数年後の1962年。「Try Me」などのヒットで売れっ子歌手としての地盤を築きつつあるジェームス・ブラウン氏は、いよいよショウマンたちの聖地アポロ・シアターで単独公演を行うことになります。
こうした大イベントはビジネスを一気に加速させる大チャンス。ジェームス・ブラウン氏は、アポロのショウを録音し、ライブ盤として発売することをレーベルに提案しました。
しかし、これには大きなハードルがあったのです。
当時ライブ盤は「売れない」というのが業界の定説でした。「キレイな音で、楽曲をきちんと収めたスタジオ盤があるのに、なぜわざわざ歓声や拍手などの<雑音>が入った音質も良くないライブ盤を買うやつがあるか」、それがレーベル関係者たちの共通認識でした。
「自分の音楽は、ライブでこそ最高の感動と興奮を与えることができる」自身のショウに絶対的な自信をもっていたジェームス・ブラウン氏にとっては、そんなの知ったこっちゃねえわという話だったようです。
ですが、そこはやはりビジネス。ライブ録音にかかる費用はスタジオ録音の数倍と言われており、レーベル側も莫大な投資に対しての「売れなかったときのリスク」に対して二の足を踏む。折れないレーベルに対して、ジェームス・ブラウン氏はひとつの大きな決断を下します。
このライブ盤の録音にかかる費用は、すべて自腹を切る。
レコードもヒットし、ある程度のギャラは得ていたとはいえ、自腹録音…。録音機材の調達やエンジニアの確保など、その費用は決して安いものではなかったはず。
誰もが「NO」を突きつけたアイデアを実現するのに、彼は自分が血を流すことも厭わなかったのです。
こうして翌年にリリースされた「Live at the Apollo」は大ヒット。それを機に業界の固定観念は「ライブ盤は売れる」にチェンジし、それは今でも変わらずに残っています。
ジェームス・ブラウン氏は立ち止まりません。
「俺は生き残りたかった。俺は靴磨き小僧であり、刑務所に入った前科者であり、用務員であり、七年生に満たない教育しか受けていない。こんな前歴の持ち主にそんなにたくさんのチャンスが来るもんじゃない。それが現実だ。」(JB論より引用)
そんな彼が次に着目したのが、自身のメインビジネスである「ショウ」の構造でした。
生き残るために誰よりも多くのショウをこなした彼も、それがいつまでも持続可能だとは思っていませんでした。数を増やすのではなく仕組みを変えることで、これを持続可能なものにしようとしたのです。
当時のアメリカにおいて、アーティストはマネージャーを自ら雇い、興行を計画します。実際に興行が決まれば、各地方にいる本職のプロモーターにマージンを支払い、会場の確保や集客や宣伝を行います。プロモーターはショウを仕切り、最低限のギャラをアーティスト側に保障していました。
つまり、「どんな結果になっても最低いくら収益が得られるかが事前にわかっているので、今後の見通しが立てやすい」という、確かにアーティストにとっては助かるような仕組みになっていました。逆に言えば、ショウが大成功したとしても、アーティストはその成功にふさわしいだけのギャラを得ることができなかった…とも言えるのです。
ジェームス・ブラウン氏は、リスクを負うことを決めました。プロモーターに依頼するのをやめ、自分たちで興行を企画し、集客や宣伝には地元の若いDJたちの協力を求めたのです。
当時DJたちは安い給料でラジオ局に雇われていた(所属アーティストを宣伝したいレーベルからのワイロが彼らの収入を助けていたそうです)ため、ジェームス・ブラウン氏の申し出にDJたちは大賛成で飛びついたそう。ジェームス・ブラウン氏の興行に協力したDJのラジオ局では、彼の曲がガンガン流れたそうです。
プロモーターのマージンをカットすることで、開催にまつわるあらゆる雑事(会場の確保やチケットの販売、当日の誘導や不正チケット被害の防止などなど…)を自ら負担しなくてはならなくなりました。
そのかわり、興行が成功すれば従来以上の利益を得ることができるようになり、その利益の一部をDJたちに還元することで、彼らとwin-winの関係を新たに築き上げることができたのです。
「JB論」ジェームス・ブラウン氏のインタビューなどを集めた大辞典。魂震えるばかりの名言多し!
リスクを恐れること無く既存の価値観を破壊し続けたジェームス・ブラウン氏ですが、彼が成功した理由は「バンドが最高」だったからだと、本人は話しています。
斬新な曲のリリースも、売れないと言われたライブ盤の録音も、興行システムの革命も、発想力と実行力が伴っていないと実現できない大きな仕事です。
しかしその大きな仕事に挑戦し続けている傍らでは、「バンドのクオリティを常に上げ続ける」という最も基本的な原理原則と常に向き合い、練習を欠かすことがなかったのだといいます。
もちろん、バンドメンバーに罰金を課すほどの恐怖政治がバンド運営にとってポジティブに働いたマネジメントだったかどうか、とかの話はありますが(笑)。
最後に、ビジネスに生き続けたジェームス・ブラウン氏の言葉をもう一つ紹介して終わりにします。スティーブ・ジョブズもビル・ゲイツも、孫正義も松下庄之助もいい。けれど、死してなお私たちの魂を揺さぶり続けるショウ・ビジネスマン…ジェームス・ブラウンという人がいたということも、ぜひみなさんには知っておいていただきたいなあと思います。
「楽に成功する方法などない。懸命に働いて、頑張るだけだ」
(JB論より引用)
おしまい