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【回想】ジェイムズ・ブラウンここだけの話 Pt.2

      2017/09/10

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2017年7月23日(日)、東京は大久保にあるソウルバー「STONE」開店25周年記念イベントとして「ジェイムズ・ブラウンここだけの話 Pt.2」が開催されました。

パート1は、2013年4月に渋谷ROOMでの「中田亮によるジェイムズ・ブラウンここだけの話」というトークショー。今回はその第2弾です。

ちなみにパート1の様子はこちらで聴けます。

※この前・後半が終わったあと、さらに、楽器を実際に演奏しながらリズムアンドブルース→ファンクへの変容を解説する…というエキサイティングな展開になるのですが、その部分の記録はyoutubeには無いようです。残念!

 

で、パート1ではジェイムズ・ブラウンの基礎知識のほか、60年代の全盛期までを重点的に攻めた内容になっておりましたが、パート2のテーマは「ジェイムズ・ブラウンの70年代」です。

 

1970年代とは

 

そもそも70年代とはどんな時代だったのか。背景を見てみましょう。

公民権運動を中心とした黒人の差別撤廃、権利獲得の活動は、60年代後半のピークを迎えたのちの70年代には、活動団体の弱体化や体制側の態度硬化によって次第に沈静化していきます。ブラック・パワーのムーブメントも、ニクソン大統領の「法と秩序」のスローガンのもとに弾圧され収縮。黒人組織の内部でも、黒人至上主義が過ぎてしまい非黒人の排斥が進み分離主義的になってしまったなどの理由から、次第に大衆の支持を失っていったといわれています。

そして泥沼化したベトナム戦争とその終結(1975年)。すっかりアメリカは弱体化してしまいます。

日本はというと、72年に沖縄が本土に返還されました。この返還が実現したのも、ベトナム戦争によって疲弊したアメリカが沖縄基地の維持コストを自国だけで賄うのが難しくなり、それを日本にも負担させようという目論見もあったためです。

そんなこんなでソ連の脅威が増したため、アメリカは中国に急接近(ニクソン訪中)。その時勢の変わり目に、すかさず田中角栄が日中共同声明を果たし、国交正常化に向けた道を切り開きます。そのほかオイルショック、変動相場制への移行など、日米を取り巻く環境は大きく躍動していました。

 

ジェイムズ・ブラウンの70年代

 

「ここだけの話」要点をまとめてみました。まあ、この要点以外のところがいろいろと面白かったりしたのですが、それは来た人だけのお楽しみということで(単に全部は覚えてないし、メモも取り切れてないというのもありますが)。

ジェイムズ・ブラウンが上り調子だったのは68年リリースの「ライブ・アット・ジ・アポロ Vol.2」のころ。一番、精力的にライブをやっていたときですね。しかし、実際に多くのソウル・ファンクリスナーやヒップホップリスナーにとってJBの最盛期としてイメージされるのは「セックスマシーン」がリリースされた70年初頭なのではないでしょうか。この頃にジェイムズ・ブラウンのファンクは完成形を見たと私も思っていて、有名な71年のパリ・オリンピアのライブ盤は終始圧巻の熱演ぶりです。

しかし71年にはブーツィ・コリンズが抜けて(実質1年弱しかいなかった)、次第に人気は落ちていきます。そして2年後の1973年、「Payback」などのリリースによりまだまだシーンで存在感を発揮していたジェイムズ・ブラウンですが、2つの大きな個人的問題に直面します。

ひとつは長男テディの死。崩れ落ちるほどに落ち込んだようですが、葬儀を済ませたあとには次のステージに出演し、それによって正気を保ったという壮絶な状況が自伝で語られています。

その後、相棒ボビー・バードの離脱を経て(すぐ戻ってきたようですが)、2つめの大きな問題である税金問題にぶつかるのです。

ジェイムズ・ブラウンは、国税局から68年の税金が未払いであるというツッコミを受けます。なお、自伝では国税局から指摘を受けたのは69年〜70年の税金とあり、その額450万ドル。変動相場制への移行直後だと思いますが、それでも1ドル265円ほどですから、日本円にすると11億9250万円・・・!? 冗談のような金額ですね。さらに、オイルショックで物価が高騰したとはいえ、当時の物価水準は今よりずっと低いですからね。今の価値に直すと20億くらいは余裕でいくのではないでしょうか。ちなみに日本では、矢沢永吉さんが30億以上の借金を背負わされ、しかもそれを全額返済したというちょっと想像できないスケールの話もありますね。

その後はラジオでの楽曲使用で著作権がらみの訴訟を受けたり、DJに支払うワイロ(ペイオラといいます)がらみで訴えられたりと、とにかくトラブルまみれになり、自身でも「どん底」と表現するキャリアの底辺に落っこちてしまうのであります。

この2つの問題と、ディスコの台頭が重なって不遇の時代を過ごすことになった、ということでした。

ジェイムズ・ブラウンって68年の大統領選で共和党のニクソン大統領を支持したんですよね。当時から今にかけて、黒人の多くは民主党を支持しているのですが、JBは共和党を支持したんです。その理由は黒人社会への支援を謳った政策案に納得したからだと言っています。でもニクソンが大統領になったあと、その多くは実現されませんでした。ジェイムズ・ブラウンはそれに不満を述べるだけでなく、自ら政界進出の野心をあらわにしていきます。黒人社会へのマニフェストを反故にしようとしたニクソンにとって、出過ぎたマネだと睨まれたのでしょう。自分が大統領に再選されたあとの73年にもなって、68年〜の税金のことを指摘してきた、というわけです。

これが「ニクソンが周到に仕掛けていた罠」だったということでした。

ただ、自伝によると実はジェイムズ・ブラウンは69年の時点ですでに国税局に指摘を受け、モメているようです。そのとき「違法なことはしとらんわ!お前らの言い分がおかしいぞ!!」くらいの勢いで職員を追い払ったと。それで逆恨みをされたのかもしれません。国税局のその職員もジェイムズ・ブラウンの不透明なお金の動きを執拗に調べ続けて、虎視眈々と逮捕の機会を伺ってきたんでしょうね。

 

というように73年を境にどんどんと落ちていくジェイムズ・ブラウンの人気。ダサジャケとして名高い「Reality」「Bodyheat」などもこの時期にリリースされています。

 

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